【沖永良部島関係情報】


◎沖永良部島の位置と島図


◎島の概況

沖永良部島の位置、地形、地図、人口及び産業等について紹介します。


(1)島名と位置、人口

   沖永良部島の「沖永良部」は、「おきえらぶ」と読まれていますが、「おきのえらぶ」と読むのが正しいとも言われている。

   島の位置は、鹿児島市から約550q南下(沖縄・那覇からは約160q北上)したところで、周囲約55q、面積約90?で、四面を海に囲まれ、島一番の高い大山が海抜245mの平坦な島です。

   島は、和泊町(わどまりちょう)と知名町(ちなちょう)の2町から成り、40余りの集落で構成され、人口は、約1万3千人余りです。長寿の島であると同時に、高齢者率の高い島でもあります。

   島には、町立の小学校が9校、中学校が4校で、そして県立高校が1校ある。


(2)行政区域と歴史的背景

沖永良部島は、行政区域としては鹿児島県に属していますが、島の文化、言語、生活習慣などは沖縄に近いものが色濃く残っている。これは、過去に340年余(1266年(文久3年)から1609年(慶長14年)まで)にわたり、琉球の北山王の支配下(那覇世)にあったことによるものとも思われるが、その後、薩摩藩の支配下になり、現在の鹿児島県となった。

位置的には沖縄県に近いこともあり、他県の知人から「沖永良部島は何県か?」と聞かれることもある。
一方、沖永良部島は、江戸無血開城と明治維新に貢献した西郷隆盛翁が約1年半の間、島流しにされた島でもある。西郷隆盛翁は、その間、島民と親しく接し、学問や幅広い知識を島民に伝授し、更には自らの「敬天愛人」の思想を確立したところともいわれている。

   また、沖永良部島は、第二次世界大戦終戦に際し、奄美群島の他の島々と同様、1946年(昭和21年)1月から約7年10カ月余の間、米軍統治下にあった。その間、群民及び島外群民関係者など多くの方々が一丸となって行った日本復帰署名活動などの復帰運動が大きな原動力となり、1953年(昭和28年)12月25日、奄美群島は日本に復帰した。


(3)産業

   沖永良部島は、主にサトウキビや花き(えらぶ百合、グラジオラスなど)、葉たばこ、野菜などを栽培する農業中心の島であり、他に子牛の生産などの畜産を組み合わせた複合型の産業構造である。特に、鹿児島県指定ブランドとしてのバレイショ「春のささやき」や花卉(主に、えらぶゆりの花)の産地としての知名度が高い。「春のささやき」は味が良くて、煮崩れしにくいというので好評である。また、「えらぶゆり」は古くから今日まで沖永良部島の特産品として歌「えらぶ百合の花」にも唄われてきた。そのほか、奄美特産の黒糖焼酎の本場でもあり、長寿と健康志向と相まって、黒糖焼酎づくりが盛んである。


◎島の写真(フォトギャラリー)

  島の概況を主な写真で紹介します。

     (注)以下の写真等については、一部、知名町及び和泊町の広報誌(紙)から転載しております。ご協力ありがとうございます。


◇日本一のガジュマルの木(和泊町)

   幹回りが約6mに対し、高さ約7m、枝張り約22mと、大きく枝を広げたガジュマルです。

   国頭小学校の校庭で育っている。


◇ウジジ浜(和泊町)


◇昇龍洞(知名町)

   *世界屈指の美しさを誇る鍾乳洞として平成28年5月8日NHK総合テレビで放映された。「自然百景」(鹿児島 鍾乳洞 沖永良部島)(NHKオンデマンドでも平成29年5月20日頃まで配信される。)


◇ケイビング


◇タラソおきえらぶ(和泊町)

 本格的なタラソテラピー施設で、心と体の癒しの島(沖永良部)の中核施設となっている。


◇花の島 沖えらぶジョギング大会(和泊町)


◇港祭り(和泊町)


◇瀬利覚の獅子舞(知名町)


◇瀬利覚のジッキョヌホー祭り(知名町)

  平成20年(2008年)環境省が選定した「平成の名水百選」に選ばれた。


◇ワンジョビーチ(和泊町)

  湾門(湾川)と書いて「ワンジョ」と標記されているようです。東シナ海を包み込むような湾になっており、湾門山が立つ風景などは景勝地です。

  また、ウミガメの産卵地でもあるようです。


◇屋子母海岸(知名町)


◇ビーチロック

  炭酸カルシウムのセメント作用により海浜堆積物が固まって出来た板状の石灰質の砂樂岩です。


◇西郷隆盛記念館など(和泊町)

   西郷隆盛が流謫されていたときに関係する資料等である。


◎島の特色

     島の自然、歴史、文化、風習、言葉及び民謡などについて紹介します。 @周囲を太平洋と東シナ海で囲まれ、年間平均気温が22℃と温暖で、年間総雨量約2,000mm、最高標高が海抜240mの平坦な島である。島は、琉球石灰岩に覆われた隆起サンゴ礁の島であるといわれている。そのせいかどうかわかりませんが、沖永良部島には毒蛇(ハブ)が生息していないのでハブに咬まれる心配がない。しかし、台風の襲来は頻繁で、年間平均7〜8個にも達する。

A島には、鍾乳洞、昇竜洞など約200以上の大鍾乳洞群があり、その美しさとスケールは東洋一とも言われ、観光の名所となっている。
B古い時代から農耕中心の島であり、昔から「イータバ」(結い=相互扶助のこと)といわれる地域住民同士がお互いの助け合いで農作業をする風習があったことから、地域住民同士が強い絆をもって社会生活が営まれていた。(最近はだいぶ薄れてきている?)

C30〜40年前までは、水稲も二期作で栽培されていたが、今ではすっかり栽培されなくなった。

D1950年(昭和25年)頃から沖縄が本土復帰されるまでは米軍の基地があり、兵隊さんとの交流や事件などもあったようであるが、島で救急患者が発生したときの沖縄への患者搬送には米軍ヘリによる多大な恩恵をうけたとも聞いている。現在は、自衛隊の駐屯地となっている。

E長寿の島であり、島には100歳以上の者が20名程度おられ、65歳以上の者の割合も30%程度と高齢者の割合が高い。

一方、若年者層の減少により農業の後継者不足が課題となっているが、最近は農業への意欲を持っている若い人たちも増えつつあり、大きな期待が寄せられている。

F島の人口は減少し、1960年(昭和35年)頃は2万人余であったが2013年(平成25年)には1万5千人弱程度の減少している。

G少子化については,合計特殊出生率が平成5年から9年頃までは、市町村別順位では和泊町が2.58全国第1位、知名町が2.48全国第5位であったが、平成26年には島全体で2.0程度となっている。


◎島の歴史

@奄美史の歴史区分は、原始から8〜9世紀までを「奄美世」と呼び、階級社会以前の部落共同体の時代でした。その後、按司という首長たちの支配割拠する階級社会「按司世」と称される時代を経て琉球王朝が支配する「那覇世」、薩摩藩が支配する「大和世」と続きます。「那覇世」は1266年(文永3年)から1609年(慶長14年)までの340余年間で、当時、琉球は中山・北山・南山の三王朝が割拠し、沖永良部島は北山の支配下にあったと云われている。沖永良部島に伝承されている文化・言語・風俗などは、その当時に起因しているものと思われます。1609年(慶長14年)、薩摩藩の琉球侵略の結果、奄美は薩摩藩直属領になり、1616年(元和2年に)は徳之島に代官が置かれ、沖永良部島と与論島を巡回して統治されていた。その後、1691年(元禄3年)には徳之島代官の行政を離れた。沖永良部島に代官所が設置されたことにより1869年(明治2年)には代官所が在藩所と改められ、1971年(明治4年)の廃藩置県に伴い沖永良部支庁となった。

また、1908年(明治41年)には島嶼町村制が実施され、沖永良部島は知名村と和泊村に区分された。

A1941年(昭和16年)12月第二次世界大戦勃発、1945年(昭和20年)8月に終結したものの、1946年(昭和21年)2.2宣言により、この沖永良部島も同年3月から祖国日本から行政分離されアメリカ合衆国の統治下となった。1953年(昭和28年)12月25日ダレス声明により祖国復帰し、日本国民として再出発した。翌1954年(昭和29年)に奄美群島復興特別措置法が公布され、1963年度(昭和38年度)まで公共土木事業を中心とする復興事業が推進され、1964年度(昭和39年度)から1973年度(昭和48年度)までの振興事業では産業基盤整備が推進され、1974年度(昭和49年度)から1998年度(平成10年度)までの振興開発事業による社会基盤の整備が図られた。その後、特別措置法の延長、再延長がなされ、2014年度(平成26年)4月からは、奄美群島の自立、新興の考えの下に改正奄美群島振興開発特別措置法による自立支援のための交付金制度も創設され、奄美群島成長戦略ビジョンの策定などを柱とした振興策が今後も引き続き図られることとなった。


◎島の方言について

   長い間、使われてきた沖永良部の言葉(島むに=方言)が消滅の危機にあると言われ、最近、島むに(方言)を後世に残そうという運動が盛んになり、現在、町役場によっては島むにを大切にしようとの活動に取り組まれている。知名町文化会館「あしびの郷」では、定期的に「島唄、島ムニ大会」なども開催されている。 ちなみに、島むに(方言)は、字(集落)ごとでも発音やアクセントなどに違いがあるといわれているが、

    *一例をご紹介します。(「宗村森信氏の方言集」より)

      ・いらっしゃい=メンショーリ    ・おはようございます(こんにちは)=ウガミヤブラ

      ・こんばんは=ウガマー

      ・ありがとうございます=ミヘデイロ

      ・父=アチャ   ・母=アマ    ・青年=ニーセ   ・美女=メーラビ

      ・男=インガー  ・女=ウナグ

      ・私=ワヌ    ・あなた=ウラ、(尊敬語)ナタ

      ・東=アガリ   ・西=イー    ・南=ヘー     ・北=ニシ


◎黒糖焼酎について(「鹿児島県酒造組合奄美支部のパンフレット」より)

   @黒糖焼酎は、約500年前に中国から沖縄へ渡来したと伝えられており、奄美へは16世紀半ば頃には製造技術が密かに伝えられていたと推測されています。1953年(昭和28年)奄美群島が日本に復帰した際に、特別措置として酒税法の通達により、米麹を併用することを条件として、大島税務署管内(奄美群島)にだけ黒糖焼酎の製造が認められました。

   A奄美黒糖焼酎は、サトウキビの搾り汁を煮沸濃縮した黒糖を原料としており、黒糖の甘い香りと喉越し爽やかな食中酒です。

   ちなみに5月9日・10日は「コ・ク・トー」は奄美黒糖焼酎の日

●沖永良部島の主な蔵元と銘柄

・沖永良部酒造:「稲乃露」、「はなとり」など。

   (注)1969年(昭和44年)に設立された共同瓶詰会社で、沖酒造、神埼産業、竿田酒造、徳田酒造が参加している。

・新納酒造:「天下一」、「水連洞」など。

・原田酒造:「昇龍」、「満月」など。


◎その他の島の特産品

  黒糖焼酎のほか、バレイショ(ブランド名:春のささやき)、黒糖、マンゴー、シマ桑茶、ユキミシ菓子、など。

   ◇バレイショ「春のささやき」

    (注)沖永良部産のバレイショは、鹿児島県のブランド産地指定を受け、また、農林水産物も認証制度の認証も取得している。

       また、全国で一番早い国産新じゃがいもとして、例年2月〜4月に、JAあまみ知名事業本部、JAあまみ和泊事業本部で販売している。


◎島へのアクセスなど

○空路

・鹿児島空港経由、沖縄経由、その他あり。

○船舶

   ・鹿児島経由、沖縄経由あり。

○宿泊施設

・フローラルホテルなど数軒あり。


* くわしくは、おきのえらぶ島観光協会で情報を入手してください。

     ・電話:0997-92-0211 又は、・ホームページで。